新加速剤が飲みたい

H・G・ウェルズの「新加速剤」は、人間を加速する薬を発明した男の話だ。それを飲むと周りのものすべてが止まる。子供の頃読んだきりなのでうろ覚えだが、小説の中で加速した発明家たちが何をするかというと、ちょっとしたイタズラだ。これは短編だからというのもあるだろうが、大それたことをさせないほうが小説的にリアルだからという理由もあるだろう。リアルといえば、時間を止めず、人を加速させたところもウェルズのスゴイところだ。人を加速させるのと時間を止めるのは、小説的な効果としては似たようなものだが、前者のほうが圧倒的に「できそう」に感じられる。

時は止められないが肉体は加速できる。なぜそう感じるかというと、我々は日常それに近い体験をしているからだ。調子がいいときに野球のボールが止まって見えたり、死の危険に瀕したときに思い出が走馬灯のように浮かんだり…というのはちょっと特殊だが、それに似たことはよく起こる。さらにいうと、我々は自分の加齢を「減速」としてイメージしているフシがある。

「1年なんてあっという間だ」とか「歳をとると年々時の過ぎるのが早くなる」とか、この年末もそんなことをいってため息をついた。しかし、本当に時間が加速すると信じている人はいない。時の流れを速く感じるのは、自分の心身が加齢による衰えで「減速」しているせいだ。我々はそう感じている。それはおそらく、死を「静止」としてイメージするところから来ているのだろう。

しかし、リアルというのは所詮「リアルという感じ」に過ぎない。すべては脳が作り出す幻想だとしたら、時間もまた幻想だ。だとすると、時間は止まったりスピードを変えたりしないというのは、我々の錯覚なのかもしれない。もしそうなら、加齢で減速しないことも、死で静止しないことも可能なのかもしれない。

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

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