クラッシュ

「クラツシュ」は、低予算映画のお手本のような映画だ。本当に低予算なのかどうかは知らないが、この映画の「上手さ」を、今のところ僕はそのようにしか形容できない。新人監督にしては「おっさんくさいな」と思って監督の生年を見たら、1953年生まれ。完璧なおっさんだった。

ミリオンダラー・ベイビー」脚本家の監督デビュー作、という惹句から、僕は勝手に若い新人監督を想像していた。まあ1953年生まれでも、イーストウッドに比べればずいぶん若いわけだが。フィルモグラフィを見ると、テレビ業界のキャリアはずいぶん長いようだ。

で、僕が「低予算映画のお手本」のようだと思った点のひとつが、脚本の構成の巧みさだ。この映画は、複数の「短篇」の組み合わせとして成り立っている。低予算映画でよくある構成だが、上手くやるのは難しい。「短篇」を並べるだけでは「オムニバス映画」になってしまうし、かといって無理に関係付けるくらいなら、最初から長篇になるような物語を構想したほうが早い。そこでしばしば導入されるのは、観客だけにわかる「繋がり」を各「短篇」に忍び込ませるという方法だ。

例えば、かつて「ミステリー・トレイン」のジャームッシュなんかは、一発の銃声を反復するという単純なアイディアで「オムニバス映画」を「長篇映画」にしてしまった(最近の「コーヒー&シガレッツ」もやってることは同じだ)。ガス・ヴァン・サントの「エレファント」なんかは、随所に同じ場面の(違う角度からの反復)ショットを差し挟むことで、「あの事件」直前の、直接には関係のない登場人物たちの「繋がり」を見せる。昨年評判になった日本映画「運命じゃない人」も、基本的には似た方法をとっている。

「クラッシュ」の場合、そのあたりの芸が実に細かい。クラッシュ=事故が繰り返されることはいうまでもないが、「同じ車種の車」「鍵」「扉」「銃」など多数のアイテムが、各「短篇」に巧妙に配置されている。我々観客はそういった「仕掛け」のおかげで、本来は別々の物語であるはずの各「短篇」を、ひとつの「長篇映画」として見る事ができる。同時に、それらアイテムが「不安」「差別」「排除」「憎悪」といった物語のテーマに直接呼応するものであることが、この映画の構成をさらに強固にしているように思う。

しかし一方で、それはこの映画の美点なんだろうか、という疑問も僕の頭をかすめる。そもそも、僕たちが生きる現実の世界には、“観客だけにわかる「繋がり」”などというものはない。似ているのは運命とか宿命とかいう類いのものだろうが、それは「神様の視点」からしか俯瞰する事ができないものだ。「神様の視点」に似たビジョンを見せるのが映画だ、といういいかたもできるが、それは映画の単なる属性であって美徳ではない。映画の「超越的な視点」はあくまでギミックなわけだから、それに支配された世界は少々息苦しい。「クラッシュ」を見た後、何か釈然としないものが残るのは、物語の深刻さのせいばかりではない気がする。

話は変わるけど、マット・ディロン。彼は文句なしに良かった。素晴らしい中年不良ぶり。二本立ての添え物だった「マイ・ボディガード」(昔のやつね)で初めて見たことを思い出した。
(2006年2月27日)