デカローグ

「クラッシュ」を見て、キェシロフスキの「デカローグ」を思い出した。

「デカローグ」は1話1時間、全10時間の連作だが、全体で1本の長い映画だともいえる。各話独立した物語で登場人物も異なるが、彼らは皆同じ団地に住んでいる。だから、ある話で軽く登場するだけの人物が、別の話の主要登場人物だったりする(キェシロフスキは「トリコロール」三部作でも同じ事をやっている。)。80年代ポーランドの、寒々とした巨大な団地、そしてそれをとりまく郊外の街が、「世界」そのものとして我々の前に提示される。

「デカローグ」と「クラッシュ」の一番の違いは、「偶然」の扱い方じゃなかろうか。

「デカローグ」では、様々な「偶然」が人々を翻弄し、苦しめる。例えば、癌で瀕死の夫を持つ不倫妻が妊娠する。愛する夫に回復の見込みがあるなら、彼女は堕胎するしかない。夫が死ぬのなら彼女は産みたい。年齢からして最後のチャンスなのだ。彼女は老医師に判断を迫る。過去に子供を失った経験のある老医師は答えに窮する……。繰り返すが、「デカローグ」において「偶然」は人々に試練を与えるものであり、決して人々を救うものではない。試練を与える「偶然」、それは現実の世界で我々が「運命」と呼ぶものに近い。

一方「クラッシュ」では、「偶然」が人々を救う。あるいは、差別(被差別)者の感情が引き起こす葛藤や罪を「偶然」がうやむやにしてしまう。マット・ディロン演じる差別主義者の警官は、前夜辱めた黒人女性の事故現場に「偶然」遭遇し、ペルシャ人の雑貨屋の銃の前には、鍵屋の娘が「偶然」飛び込む。彼らはそのおかげで、差別(被差別)者の感情よりも貴い感情に気づかされる。そのシーンを見て涙を流す我々は、まだまだ美しい感情が自分の中にも残っているということを再発見して、おおいに癒される(皮肉ではない、僕も泣いた)。人を救う偶然、そう、その別名は「奇跡」だ。

僕は「クラッシュ」のような映画で流す涙に少々後ろめたさを感じる。むろん、逆の感じかたをする人も多いだろう。しかし、旧約聖書をモチーフにした映画の視線があくまで人間的で、殺伐とした社会を描くアメリカ映画の視線がどこか神がかっているのは、なんとも皮肉だ。

(2006年3月3日)