SOMEWHERE

ネタバレあり。
「どこか」というのは「ここではない場所」というのと同義だ。おそらく、「どこにもない場所」というニュアンスも含んでいる。
ラストシーン、主人公はフェラーリを棄て、荒野へと歩き出す。直前のシーンで「オレは空っぽだ」と泣いた彼は、「空っぽじゃないオレ」を探しに出奔するわけだ。しかし、彼の行き先が具体的に示されることなく、映画は唐突に終わる。
荒野は「どこか」を象徴する場所だ。彼の向かう先が「ここではない場所」というだけの「どこにもない場所」である限り、「空っぽじゃないオレ」が見つかる可能性は極めて低い。それでも彼は「甘い生活」を棄て、「どこか」へと向かうのである。
それにしても、それほど彼の人生は唾棄すべきものなのだろうか?
彼はイカレた生活を送っているが、大きく人の道を踏み外しているわけではない。退屈しているが、人に迷惑をかけているわけじゃない。妻や娘と別居しているが、娘の面倒は見るし、娘も彼になついている。そして何より彼は、リッチでセレブな映画スターだ。
悪くない、どころか、多くの人がうらやむような生活ではないか。
監督のS・コッポラが、彼と彼の生活を愛しているのは間違いない。でなければ、彼の生活を淡々と描写することに映画のほとんどの時間を費やしたりはしないだろう。
「SOMEWHERE」は、「空っぽ」な主人公を断罪する映画でもないし、家族の価値を再確認する映画でもない。
どんな人生にも、それが無価値に思える瞬間がある。「別の自分」「実現しなかった人生」の幻影を見ない者はいない。しかし、無価値に思える自分、いまここにある生活こそが、かけがえのないものなのだ。
「SOMEWHERE」のラストシーンは、逆説的に、そんな人生の見方を示しているように思える。