「J・エドガー」、あるいは「不気味の谷」

多少ネタバレアリ
ロボットをどんどん人間に近づけていくと、ある時点で人は急にそれを不気味だと感じるようになる。その現象を「不気味の谷」と名付けた科学者がいるそうだ。映画「J・エドガー」でL・ディカプリオが演じた老人を見て、その言葉を思い出した。
J・エドガー」は、J・エドガーフーパーの晩年と青・壮年期を交互に描く。だから彼を演じるディカプリオは、映画の半分は老人の特殊メイクを施し、老人の演技をしている。「J・エドガー」の評価は、この老ディカプリオを受け入れられるかどうかで大きく分かれるのではないか。
いや、特殊メイクや演技が悪いといいたいわけではない。逆に「出来過ぎ」ているのだ。メイクは非常に精巧だし、演技も素晴らしい。ディカプリオは老人を完璧に演じている。気味が悪いほどに。問題は、この「気味の悪いリアリティ」をどう評価するか、ということなのだ。
共演者のナオミ・ワッツアーミー・ハマーも、ディカプリオ同様、老けメイクで登場する。しかし、この二人は不気味というほどでもない。おそらく、ディカプリオほど「出来過ぎ」ていないからだ。
ディカプリオの「気味悪さ」は、ひょっとしたら、死ぬまで「母の息子」であり続け、「成熟」を拒否し続けた主人公の人物像と一体のものなのかもしれない。J・エドガーはある意味、若いまま年を取り、死ぬのである。そう考えると、老ディカプリオの「視覚的な」気味悪さも少し納得がいく。しかしそれでもなお、釈然としないものが残る。老いたディカプリオは、どうしてこんなに気味が悪いのか。
市民ケーン」のオーソン・ウェルズも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックスも、「ベンジャミン・バトン」のブラッド・ピットも、不気味というほどではない。でも「J・エドガー」のディカプリオは不気味だ。単なるイメージの問題なのかもしれないが。