疲れを癒やす

日曜日、仕事である街へ行った。名古屋のベッドタウンといわれる街だ。
駅舎か駅前で昼食をとるつもりだったが、考えが甘かった。
大きなJRの駅舎にも、広い公園のような駅前にも、コンビニすらない。


少し考えれば予想できたことだった。
名古屋駅とは数分の距離。ここは通勤・通学のためだけの駅なのだ。


諦めて仕事先へと歩き始めたとき、「うどん」「丼」などと書かれたノボリが目に入った。
立体駐車場らしきビルの一角に、セルフサービスの小さな飯屋がある。
飯屋といっても、スーパーの一角にあるような、食券制の味気ないアレである。


先客は若い男がふたり。新聞を見て競馬の話をしている。
店員は狭い厨房にいるオバちゃんひとり。
トイレの場所を尋ねると、隣のパチンコ屋にしかないと言う。


要するにそこは、大きな駐車場を階上に備えたパチンコ屋の裏手だったのだ。
おそらくスペースが余ったかなんかで、パチンコ客をあてこんだ飯屋を作ったんだろう。
そう考えると、この飯屋のやっつけ感にも納得がいく。


さて、おばちゃんの指示通り、一旦店を出て別の入口からパチンコ屋に入った。


巨大な窓のない空間で、声も聞こえないくらいの轟音の中、無数の人が一心にパチンコ台に向かっていた。
店もなく人もいない外の風景との落差にたじろぎながら、広く清潔なトイレで用を足した。


そのパチンコ屋の光景は、ディストピアSFに出てくる会社や工場を想起させた。
平日に会社や工場で働く人たちが、休日に疲れを癒やす場所。
そこは、当の疲れを作りだした元である会社や工場に似ている必要があるのかもしれない。


随分昔にテレビ番組で見た、ある子供の姿も思い出した。
その子供は学校に通わず、父親と二人三脚で東大を目指していた。
彼は勉強に疲れると、休憩として数学の問題を解いていた。


疲れは、それに似た疲れでしか癒やされない。
仮にそうだとしたら、なんというか、業の深いハナシだ。


オレにもきっと、そういうところはあるのだろう。
しかし自分自身では、それをそうとハッキリ認識することは難しい。
おそらくそれが救いなのだろう。


そんなことを考えながらうどんをすすり、仕事へと向かった次第。