偽大学生

ロイヤル劇場で。


ラストシーンに、胸を射抜かれた。
1960年の映画で今回初見だったのだが、今見ることができてよかった。


“施設”の患者たちが見物する中、「保守を、倒せ!」と、ひとりでデモを演じる“偽大学生”。
その様子を扉の陰から覗き見て、“施設”の職員が囁き合う。
「新しいタイプの気狂いだな」
「これから増えるぜ、ああいうの」


この「予言」は当たった。
半世紀以上前に発せられたこのセリフは、現在のわれわれを正確に言い当てている。
俺も含めて、日本は今や「新しいタイプの気狂い」だらけになった。


増村保造の映画「偽大学生」は、原作である大江健三郎の短編小説「偽証の時」と、似て非なる作品である。
映画は原作小説が描く「監禁事件」を忠実に、しかし対照的な視点から描いている。


小説「偽証の時」は、女子学生の一人称で書かれている。
彼女は監禁した側、“T大歴史研究会”に所属する「加害者」である。
小説は彼女を通じて理念と倫理の葛藤を描くもので、「被害者」である“偽学生”は、そのための抽象的な道具立てにすぎない。
だから「罪と罰」の殺された老婆のように、作中で具体的に描写されることはほとんどない。
(というか、「奇妙な仕事」の“犬”や「死者の奢り」の“死体”と同じようなものだ。)


一方、映画「偽大学生」は、「被害者」である“偽大学生”を主人公としている。
改変の帰結として映画には、冒頭とクライマックスに、オリジナルのエピソードが付け加えられている。
(そのせいで構成がいささか緩くなっている(女子学生役若尾文子の存在が中途半端)という批判も可能だろうが、“偽大学生”役ジェリー藤尾の不気味さで相殺されていると俺は思う。)


冒頭では、帝大“東都大”に落ちた4浪の主人公が、コンプレックスから左翼急進派の“東都大歴史研究会”に潜り込み、“偽大学生”としてスパイ容疑で監禁されるまでを描く。
クライマックスでは、ひしめく東都大生の前で“偽大学生”が演説をぶつ。
「監禁事件」でおかしくなった彼は、事実を隠蔽した「加害者」たちに向かって、東都大生である自分はあなたたちの仲間だと嬉しそうに宣言する。


かように「偽大学生」は大江の原作小説とかなり趣を異にするが、映画における“偽大学生”というキャラクターは、ほぼ同時期に大江が山口二矢をモデルに書いた短編小説「セブンティーン」(「政治少年死す」)の主人公と直接つながるように感じる。
前者は左翼の過激派、後者は右翼のテロリストをそれぞれ「演じる」が、そんな違いはまったく重要ではない。


“偽大学生”にとっての「帝大」や「デモ」は、「セブンティーン」の“おれ”にとっての「思想」や「天皇」と同様、貧弱な「自意識」を満たすための手段でしかない。


彼らをわれわれの似姿だというのが傲慢なら、少なくともそれは俺の姿だといっておこう。
そのうえ、そういうタイプは残念ながら、もはや新しくも珍しくもない。


映画「偽大学生」のラストのセリフは、最近忘れがちになっていたその事実を改めて俺に突きつけた。