自分で考えることはそんなにいいことか

「雑学王」というクイズ番組を見るとはなしに見ていて不思議に思った。自分の答えを説明するとき、解答者が誰ひとりとして「これ知ってました」「本で読みました」「ネットで見ました」と言わないことだ。解答者は物知りで売っているタレントばかりなのだから、もともと知っている「雑学」も多いはずなのに。
こういうツッコミは野暮だと言われるかもしれない。「雑学王」という番組は、雑学の紹介とクイズを組み合わせたところがミソなのだろうから。しかし、そもそも考える対象ではない「雑学」を、さも考えて導きだしたかのように説明しなければならないというのは、それを「考える」人が放送作家なのかタレント本人なのかは知らないけど、かなり大変だろうだなあと思う。

話は飛ぶが、小学生のときこういうことがあった。
水の「対流」をテーマにした理科の授業。実験授業というのだろうか、他校の先生方が大勢観覧する授業だった。
ビーカーに入れた水をバーナーで熱すると対流を起こすが、それを実験で確かめるにはどうしたらいいか考えよ、というお題が出された。私は、水の上層中層下層にそれぞれ温度計を差し込み、温度の変化を記録するというアイディアを紙に書いて提出した。それを見て担任の先生は「そんなので確かめられるかなあ」と困ったような顔をした。
実は私にも、そんな実験で水の対流が確認できるはずがないことは分かっていた。一番いい方法は、あらかじめ水の中にオガクズを入れておくことだということも知っていた。理科好きだった私は、随分先の方まで参考書を読んでしまっていたのだ。
なのになぜそれを書かなかったかというと、担任の先生の指示が「自分で考えなさい」だったからだ。参考書で知ったことは、自分で考えたことではない。小学生の私は困った。オガクズを別のもの、例えばモミガラに変えたとしても、それは自分で考えた答えにはならないと思った。私はそんなふうに「考えた」あげく、三本の温度計を差し込むという、自分でも全くの間違いだと分かっているが、しかし「オリジナル」である答えを導きだしたというワケだ。
「自分で考える」というのは大切なことのひとつだが、オマエが思っているほど「よいこと」でもないよ。小学生の頃の自分に今アドバイスするとしたら、そんなところだろうか。