二百三高地

ロイヤル劇場で。


1980年、オレが15歳の時の大作映画。テレビやラジオで主題歌をよく耳にしたという記憶がある。
しかし当時はスター・ウォーズインディ・ジョーンズに夢中な子供だったので、見たいとも思わなかった。


二百三高地」は、同じロイヤル劇場で見た「黒部の太陽」に骨格がよく似ている。
〈明治の日露戦争〉と〈戦後の黒部ダム建設〉は、「歴史的偉業」として映画に描かれている。
どちらも不可能と思われた「大プロジェクト」を成し遂げた人々の物語である。

二百三高地」ではロシアの軍事力が日本を圧倒していることが、「黒部の太陽」では破砕帯がトンネルの行く手を阻んでいることが、映画の冒頭で語られる。
合理的なやりかたで「敵」に勝てる見込みは非常に低い、というのが共通した出発点だ。


プロジェクトの指揮を執る主人公は、いわゆる「英雄」としては描かれない。
彼は国家や会社の命を受けた「中間管理職」である。
ゆえに「敵」に対して何ひとつ有効な手を打つことができないまま、「突撃」を命じ続けざるをえない。
その結果、人一倍部下の犠牲を嫌う人間であった主人公が、多くの部下を失うことになる。


劇中、「二百三高地」の乃木希典は息子の死を、「黒部の太陽」の北川は娘を死を知らされる。
主人公が「偉業」のために自らの人生をも犠牲にしたことを象徴的に語るエピソードだ。
ラストシーン、乃木は天皇の前で泣き崩れ、北川はひとり静かにダムを見つめる。


両作品を見ているあいだ、オレは同じ事を考えた。
主人公(や他の登場人物)の「内面」を支えているものは何なんだろう。
何が彼らを、伸るか反るか、生きるか死ぬかの賭けに駆り立てるのだろうか。


国家や会社に対する使命感、というだけでは説明できない何か。
奇妙で野蛮な情熱、のようなもの。
二百三高地」も「黒部の太陽」も、それに対する観客の共感を自明の前提として成立している。