見知らぬ男

スーパーで買物をした帰り、見知らぬ男に呼び止められた。
いや、呼び止められたという表現は正確ではない。
具合が悪そうに「すいません、すいません」とこちらを見るので、俺の方から近づいたのだ。


「家に帰るお金がないので貸してほしい」とその男は言う。
どうしたのかと尋ねると、
「両親の墓参りのため飛騨高山から名古屋に来たが、財布をすられて帰ることができない」と言う。
「身寄りがないので連絡する相手もいない。このままだと野宿しなければならない」とも言う。


30前後のおとなしそうな男だ。しゃべり方が少し舌足らずだが、それ以外特に不審なところはない。
男は「自分は障害者だ」と付け加えた。
疲れきった様子で、歩道の脇のビルの階段に腰を下ろし、俺を仰ぎ見ている。


俺は、警察に行ったらどうかと提案した。
男は「警察にはもう二回行ったが、お金は貸してもらえなかった」と言う。
帰るのにいくら必要なのかと尋ねると、「五千円」だと言う。


「ここで見知らぬ人に五千円貸すことはできない。でも第三者立ち会いのもとなら貸してもいい。だから一緒に警察に行こう」
改めてそう提案すると、男はとても落胆した様子で、
「もういいです。今日は野宿します」と言った。
それで俺はその場を立ち去った。


そのあと男がどうしたかは知らない。
家に帰る途中、男の話が本当なのかどうかだけが気になった。


途中までは、本当かもしれないと思って聞いていた。
本当なら金を貸してもいいと思っていた。
もし返してもらえなくても仕方がないと考えていた。


なぜなら、そのほうが罪悪感を感じずにすむと直感したからだ。
困っている男を助けなかったとなれば、あとで思い出して「嫌な気分」になるだろう。
そうなるくらいなら、五千円くらいは我慢しようというワケだ。


俺の考えが変わったのは、男が警察に行くのを頑なに拒んだからだ。
俺は男の話全体が、かなり怪しいものだと判断した。


しかし、だからといって男の話が完全に嘘だとは断定できない。
男は警察がキライなだけなのかもしれない。
仮に話のすべてが嘘だとしても、男がお金に困っているということだけは本当かもしれない。


家に帰って、ネットで名古屋から飛騨高山までの運賃を検索した。
高速バスや鈍行なら約三千円。特急を使うと五千円を少し超える。


五千円という金額にあまり根拠がないことがわかって、俺は少しホッとした。